僕がハットウシンだったら

講談社文庫のビニール、ほんといやだわ〜。なるべく買わないようにしよ。

堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』を読み始めました。入院読書には堀江敏幸がうってつけだからです。理由はたくさんあるけれど一言で言えば、そこでは人がおざなりにされないから。

とりあえず今日は「果樹園」から少し。

「そちらがオクラで、こちらがレタスです」

「オクラにレタス?」

 タオルを持つ手を宙に止めたまま、彼は言葉を返した。

「ずいぶん、変わった名前だな」

「かもしれません」

「なんでキャベツとレタスにしなかったの? その方が揃うでしょ、野菜的に言って」

 野菜的に言って、か。なるほどそういう言葉の使い方ひとつで、気持ちが明るくなる。これもまた最近になって意識するようになった、自分の中の変化だった。 (p.35-36)

通常とは少しズレたニュアンスの妙味を味わうか、変な言葉遣いだと一蹴する「言葉の自動機械」(宮台)なのか。相手の言葉を流さず、受け止めて、反芻すること。受け止めるのは言葉だけじゃないし、人間だけでもない。

それでもこんなふうに、どことなく不器用な犬と、その不器用をまるごと受け止めて補佐するともなく補佐している繊細な犬の行動を背後から追うのは、じつに新鮮な体験だった。ほんとうの新鮮さは、はじめて出会ったものに対して感じるのではない。もう出会っていたのに気づかなかったことがらとの再会によって生まれるのだ。 (p.44)

いつでも出会い直すこと、みたいな事言ってる哲学者誰だったっけ。それにしても堀江敏幸は初期からずっと話の長さに関わらず、時間を描いている。いまだに読む数少ない男性の小説家。

 

胸の圧迫感というのか閉塞感というのか、張っているような感覚は昨日より増していた。SpO2も90台前半の時が日中結構あった。昨日のポータブルレントゲンでは先日より胸水が改善されていたという事だったのだけれど、実態としては悪化している。昨日のリハビリの、ベッドサイドから立って座る×5が良くなかったのではないかと思っています。肺の負荷が大きすぎます。本読むのもスマホでこれ打ってるのも胸はしんどい。

 

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先日この本読んだんだけどつまんなかったのでスルーしました。論考集かと思ってたらエッセイで、広く浅く中途半端。エッセイと精神分析って相性悪いよ。。

同じ演習にandymoriの歌詞で卒論書きたいって言ってた人そういえばいたなぁ

疲れた

看護師への忖度コミュニケーション(もどき)に疲れました。

いいえ、ずっと疲れてます。

医師と患者はなぜすれ違うのか、みたいな本はいくつもあるけれど、看護師と患者も根深い。

看護師が去った後のベッド上でため息をついたり舌打ちをする患者をどれだけみた(きいた)ことでしょう。。

いや、そんなことは今回書くはずじゃない、その問題についてはもっと元気な時に、今は23:26、ほんとうは更新しないつもりだったけど、何も書かないと、書きたくなかった事すら忘れてしまうから、これだけ。ほんとうは大抵こんなもんなんだけど。

 

宇佐見りん「三十一日」もよかった。やっぱり巧いなぁと思う。頭いいなぁと思う。感覚を言語化するのが特にうまい。先日亡くなった青山真治の『空に住む』をちらっと思い出した。あの映画は青山作品の中でダントツにつまらなくて、みたあと公式サイトの推薦コメントみて苦笑してしまった。いやだからそんな事だらだら書くよりもう寝ないとだって。眠剤は1時間前に飲みました。明日が穏やかな一日でありますように。23:35。はい。

犬、転がっといたらええやん。

先日からちょくちょくKindleで本を読んでみているのだけど、どんなに安かろうがポイント還元されようが場所をとらなかろうがぼくぁ電子書籍苦手だ。

ぼくぁ重いし場所とるし高いし不便な本というものが好きだ。重さを持たない本はイヤだ、まっすぐな線のマーカーが一瞬で引けちゃうのもイヤ、効率的、イヤ。システムに縛られた上で本と向き合うの、イヤ。

ぼくの汚い字、読み返した時に読解困難な書き込みや、うにょ〜〜とした直線のつもりの曲線や、うっかり本の端を曲げてしまった時だっていとおしいのよ。ただベッド上で、身体を起こしているのもしんどい人間にとって本という物質は、ずっと重いのです。

 

17〜20くらいの現代の若者を巧く描く新人作家達、これまでと少し違うな〜という感じする、宇佐見りん、遠野遥、乗代雄介とか。綿矢りさ柴崎友香みたいな作家がかつて描いていた頃よりも複雑化(が露呈)した現代を、複雑さを抱えたまま、文体に滑り込ませたり換骨奪胎させたり、平易な文章としてアウトプットさせてる。『かか』は文章自体は簡単だけど、独特の言葉遣いによってさらさらとは読ませず、躓きながら読み進める事になる。

わたしもうーちゃんみたいに小さい頃から不文律がたくさんある。他人からすればほんとうにどうでもいい、鼻で笑っちゃうような決まり事が。でもそれは小さな倫理でもある。だから大切だし、真剣だし、たまにがんじがらめになってしまうけど、それは外には関係のないこと。

 

外部ーーあくまで閉じられた場ーーとして時折描かれるSNSの裏垢的コミュニケーションが、この社会に生きている以上他の人達もそれぞれに不安で淋しいという視点をその都度確認させるから、外に救いがあるとか理解者がいるという方向には向かわず、うーちゃんは熊野に向かう。

 

それで思い出したのは、小野正嗣『九年前の祈り』。この作品もたしか母と生まれて間もない子の話で、父はいなくなっている。地方へ行くという設定、この作品では母ではなく子が(赤ちゃんだから当然なんだけど)泣き叫ぶーーたしかみみずの這ったような、みたいな比喩があったはずーー、そして祈り。

この作品が芥川賞受賞した時、ちょうど立教の文芸・思想の教員で、一部学生などの間ではこれそんな良い作品? てかそもそも新人じゃないよね。などと話がされていたのはまた別のこと。。

 

みんなも淋しいってみんな知ってるのにみんな淋しいなんておかしいねえ

 

「だいだらぼっち」

作詞:野田洋次郎

作曲:野田洋次郎

一人ぼっちは寂しいけれど みんな一人ぼっちなら
寂しくなんかない 一人ぼっちなんかじゃないから

「君は優しい人」 誰かに与えられたその
肩書きを守るため 必死に僕を飼いならす

だけど もう疲れたよ 僕は降りることにしよう
一言で言えるような人間に 僕はなれない

生きてる間の ほんのちょっとの時間くらい
一人で大丈夫だよ 大丈夫だよ

一人ぼっちは寂しいけれど みんな寂しいんなら
一人ぼっちなんかじゃない 寂しくなんかないから

僕はもうダメなんだ 神様の失敗作
どこで何を 間違えたんだろう 答え合わせでもしよう

でも待ってよ もしかしたら この世界ははじめから
失敗作や でくの坊の 放り込まれたゴミ箱

生きてる間の ほんのちょっとの時間くらい
誰かといればいいんじゃない いいんじゃない

一人ぼっちは寂しいけれど みんな一人ぼっちなら
寂しくなんかない 一人ぼっちなんかじゃない

一人ぼっちは寂しいけれど みんな寂しいんなら
一人ぼっちなんかじゃない 寂しくなんかないから

「ところで君は じゃあどんな人?」と尋ねられて気付いたよ
一人だけじゃ 誰かがいなきゃ 僕が誰かも分からない
僕は 生きてさえいないじゃないか

一人ぼっちは寂しいけれど 君と二人ぼっちなら
寂しくなんかない 一人ぼっちなんかじゃない

一人ぼっちと一人ぼっちが 集まってできたこの世界
寂しいことなんかない 一人ぼっちなんていないよ

一人ぼっちになんてなれないから

 

(https://j-lyric.net/artist/a04ac97/l02459c.html)

みんな一人ぼっちなら、みんながそれぞれ寂しいし、みんながいるのに一人ぼっちになってしまうから寂しいし、みんながいるから一人ぼっちにもなってしまうと思うんだけどなぁ

 

シャワーを浴び、カミソリをあてる描写で、石原海『ガーデンアパート』の冒頭と濃い赤色を思い出す。夜のテアトル新宿でみて、始発までガストでパンフレット読んだら本読んだりして過ごした事も。終電過ぎても歌舞伎町なので若い客はどんどん入ってくる。隣の女子高生2人組、向かいの夜職男女6人グループ、あの猥雑な賑やかさ。みんな淋しい。

 

かかから生まれてきたうーちゃんが、かかをにんしんする。ゆるしと救いを同時に為すには自身がかみさまになるしかない。この国を生んだ母であるいざなみに会いに山を上るけれど、この道程は姥捨山の役割も持つ。うーちゃんは溜め込んだ自分の内面を独白し、SNS上の言葉でかかを殺す。

「ずっとそうやってきたんです。」(p.132)

「そいでも、そんな生活ともさいならです。」(同上)

ここまでうーちゃんの独白を辿ってきた読み手にはこの言葉が重たい。文章技術はいろんな場所で光ってる。煙と水の束とかね。

かかを、自分を、解放する。うーちゃんは身体の反応としてようやく吐き、そして泣き、叫ぶ事ができた。でもこれは何かの解決ではないから、手術を無事終えたかかと、うーちゃんと、家族は続く。

この段落を書く前に最後の数十頁を読んだのだけど、北川洋次郎という人物名が出てきて、洋次郎の縁! となりました。

 

マンマ・ミーアはイタリア語で「なんてこった!」、英語の、oh my God! にあたる。

原義は「わたしのお母さん」

 

胸の圧迫感は相変わらずです、特に右乳首と脇の間あたりの筋肉が繊維化してるのか、ものすごく張り詰めています。胃のむかむかなのか、肺なのか、気持ち悪さが少しあります。労災にいた時は吐き気がかなりあったので、悪化しないといいな。

外に出たい

 

 

消してリライトして電源落ちておじゃん

ツァラトゥストラはやめて、宇佐見りん『かか』を読み始めました。河出文庫から出る新人作家の小説はハズレがないので買います。文藝や単行本の時点では高いし重いし買わない。。

以下、本文からの引用です。

 

うーちゃんは相手をからだに取り込んだときにだけ、そいを自分として痛がることができるんです。身内になってしまえば、自分のことだかん痛いのはとうぜんです。 (p.24)

どうしたってメルロ=ポンティの間身体性、身体の感覚拡張などの議論が浮かぶわけで、実際以下の引用に顕著なように一つの主題として貫かれている。

そしてケア(ヤングケアラー)と依存関係。

コロナ禍になり、学校の授業がオンラインになった事で、ヤングケアラーの学生が家で介護や手伝いをしながら授業を受けられるようになったという話をラジオで聴いたのを思い出した。

 

うーちゃんとかかとの境目は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもんでした。 (p.41)

 

かかは自分の肉と相手の肉とをいっしょくたにしてしまうたぐいの人間なんです。 (p.57)

 

皮膚と境界、侵入と可傷性、「肉」ーー。

著者もきっと書きながらメルロ=ポンティが頭にいたはず。。

まだ60頁までしか読んでいないのだけど、これ、藤野可織『爪と目』と一緒に考えられる作品だ、痛みの描写、皮膚(表面)、女性の子どもによる語り、残酷さと批評性とか。

 

かかはいつだって鮮やかに悲しむ人だったと、思わん? (p.48)

 

シネ、と小さく怒鳴りながら吹き込む、最初の「シ」が、彼女の耳に突き刺さってくれればいいと願いながら電話を叩き切りました。 (p.49)

 

この作品、親子関係でしんどい経験をした、している人にとっては結構きついと思う。

わたしは親と昔から関係悪く、VADを着けて心臓移植待機している時には発狂寸前で自殺のことばかり考えていたし、移植後、母親と二人暮らしをしていた時には重度のうつ病と診断され、原因である母親と離れて暮らす事になったくらい色々あり、読んでいると全く状況は違うけれどおもた〜い気分が二乗される。。

関節の柔らかい文体がうまいなぁ

横浜のフードコート、昔あったビブ地下かな、伊勢丹かな、でもどっちも1人でいられるような場所じゃなかったもんなぁ、というか宇佐見りんさんの年齢だとフードコートだった時のビブ地下は知らんか。。

 

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崎陽軒の炒飯、もっとおいしい記憶だった。。

消し忘れたライト、残されるライフ

いろんなツッコミをいれながら読むツァラトゥストラは面白いけれどちょっと退屈、あんま大したことない本かもな、美味しそうだから最後に食べようと取っておいたらすっかり冷めてしまって思っていたほどじゃないし2.3口でもういいかも…となってしまうやつ、これを何百頁も続けるより面白そうな小説読もう。出来の悪い小説ってかんじ、しちゃうんだよな〜。

 

昨日事前の知らせもなくポータブル心エコーを撮られ、今日になるとCTを撮りにいかされ、ん、なんか異常あったんならまず説明してくれよ、と思っていると胸水が溜まっていると。

血液中に蛋白質が不足していて水分を保持できず、血管外に洩れているのが原因かもしれません。と言っていたけれど、ここ1ヶ月は食事量が回復して栄養も問題ないんだよなぁ、、

今の生食から、水分量を減らした高カロリーのものに変える事になった。僕の細い末梢血管では血管痛になるしすぐダメになってしまうんだよなぁ、ルートとれないのに、はあ

 

車椅子移乗だったり、身体を動かす時、「ゆっくりでいいですよー」と言いながら僕に触れてる手は急かしている、雑に扱っている。看護師や医療者によくある、言ってる事とやってることの乖離、ダブルバインドは第三者には分からない。だから親のような見舞い人と患者とでは看護師の評価がまったく異なることがあるよね。

 

他の間質性肺炎の患者さんを知らないので、自分以外の実情が分からないのだけど、私の場合はとにかくほんの僅かな負荷で痰・咳が出てきてしまい、一度出ると6.7時間出てしまう。

出ている間はとにかく悪化させない事、痰を出す事に神経は注がれ、ベッドの頭部を40度〜50度にした状態で仰向けになったまま、そうした日々のせいで相当な負荷を強いられている尾てい骨あたりの痛みを少しでも緩和させるべく下半身を左右に向けて体圧分散する。ただ身体を横に向けていると数分で喘鳴がきこえ、咳が出てきてしまう為、可動域はかなり狭い。マットは柔らかいものにしてもらっているが、その上に敷かれた横シーツがネック。パウチ交換、便破棄、尿器をベッド上でしているから敷かれているのだけれも、このシーツの布のずれや表面の硬さがお尻の皮膚と擦れて痛い。柔らかい保護シールを貼っているが、原因であるシーツがある限り回復はしない。以前看護師さんにちらっと横シーツが…という事を言ってみたけれど、汚れる可能性があるからということで変更なし。体調がもっと良くなり、動けるようになるしかないぜ。と思いながらそろそろ1ヶ月が経つ。春を感じる間も無く、梅雨に入っていた。

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そういえばさっき閲覧数のお知らせが来たのだけど、いったいどなたが読んでくれているのだろう。。

 

 

 

アイデンティティがない?

こんばんは。

昨日の続き、『医療ケアを問いなおす』を読みました。後半はかったるくなりました。入門書だからこれくらいでいいのかな。

現象学的人間論と看護』において、ベナーがメルロ=ポンティを踏まえて展開する「身体化した知性」。それは病いなどで損失する事もあるが、その度に状況に応じて生成変化する(本書ではフッサールの用語から「発生的成り立ち」とされている)。

、、、、すみません、ここから現代思想のいう別の仕方とか、獣、パフォーマンスアート、自分のこと、と話を繋げようとしたのですが、まぁいっか。になってしまいました。こんな日記など全て、まぁいっか。でしかないですね。

 

いいえ、そんなことない。大切などうでもよさです。ただちょっと頭使おうとした跡を残したところが浅ましい。

 

明日からはツァラトゥストラを読みます、どのくらいかかるのやら、、。

ニーチェは基本的に深刻な病人と相性悪いと思いますが、わたしは超人見習いなので、彼の作品はわりとすんなり受け入れられます。ツァラトゥストラに関する本は何冊か読んでいますが、ちゃんと最初から本文を読むのは初めて。

 

ウォシュレットヒット(おしりの穴にウォシュレットのお湯がドンピシャで当たること)すると、自然とおしっこがちょろちょろと出るの、無防備〜って感じしてちょっと好き。

 

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違う人間になりたい?

食事を摂ると痰が出る(むせる)、少しでも出るとそこから6.7時間出続ける、白い泡の粘度の高い痰が紙コップ3杯分ほど。経鼻酸素カニューレを0.2〜1の範囲で、状況に応じて上げていく。

なので、12時の昼食後に痰が出始めたら、18時に配膳される夕食はほとんどの場合食べられず、ようやく落ち着いた20時頃に、買ってきてもらっていたパンやチョコ、取っておいたクリミールで少しでも栄養を確保します。

 

 

きょうは、榊原哲也『医療ケアを問いなおす』(ちくま新書)です。

フッサールハイデガーメルロ=ポンティの議論を踏まえてベナーは「関心(concern)」あるいは「気遣い」こそが「現象学的人間観の鍵となる特性」だと述べているらしい。

それぞれ異なる人間である患者の「文化的背景」を理解するのは、認識論的には難しくても存在論的には可能なはずだ、という主張は少しきびしいけれど、言わんとすることは分かる。

人って思っている以上に価値観異なるって事にたまにぶつかって一瞬びっくりする。

 

「何か・誰かが気にかかり、大事に思われて、それに巻き込まれつつ関わる<気遣い/関心>という在り方のうちには、その何か・誰かへと向かう志向性が含みこまれている」 (p.146)

 

このあたり、コモンセンス、ルソーのピティエ、サルトルアンガージュマンを浮かべれば、この看護ケア論はそのまま共同体論にもなる。

 

ちなみに、自身も多発性硬化症という病いを経験するトゥームズは、医療者が患者の病いの意味経験の発生的成り立ちを知るには、「患者の語り」を聴くことがまず重要だと述べている。

「問診」ではなく「対話(dialogue)」が重視されるべきであり、患者が自身の病いについて一人称の「語り(ナラティブ)」ができることを目標としている。

このトゥームズの議論(『病いの意味』)は1992年刊行だけれど、このあたり読んでいるとオープンダイアローグを思い浮かべずにはいられない。

 

あ、現在、20時41分、消灯されてしまいました。もう読めません。消灯は21時なのにさすがに早すぎるよ〜ここ数日特に忙しそうだから仕方ないね。

キリが悪いのでテレビの明かりで読もうとしたけれど無理があり、ブックスタンドに戻しました。

ずーっとお腹張ってる。

今はふくろうずの2014年のアルバムを流しています。

青葉市子、高井息吹、阿部芙蓉美、CM起用多いな〜

 

ふくろうず「ごめんね」

あたしたち違う人間になりたかった
青春の夜明けはひび割れたガラスのよう

誰より本当は傷つけられたような
やさしい瞳はひび割れた子供のよう

ごめんね

正しいも正しくないも意味はないのさ
君はすてきだ!困った顔がよく似合う

ごめんね 忘れてくれ
あらそいも、約束も、流した涙さえも
ちっぽけだった
ごめんね

殺してくれ!と叫びだすような恥ずかしい夜は
抱きしめててくれよ、ほんとごめんね
ありがとう

あらそいも、約束も、流した涙も
ありふれてるあたしたちの運命も
ごめんね

(KKBOXより引用)

ふくろうずは、北とぴあプラネタリウムでのライブでこの曲聴いたのを覚えてる。2014年3月14日らしい。8年以上も前なんだなぁ。

物販でTシャツとブックカバーを買ったの覚えています。いや、ここではPredawnもライブをしていて、ブックカバーはこの時だったかな?

ふくろうずのTシャツお気に入りの柄で、サイズが思ったより小さかったのと安い素材なのとですぐ縮んでしまっても何年か無理して着てた。最後はしおれたタンクトップみたいになってた。