疲れたらちょっとさ、

『嵐の前』井坂洋子

「温度と庭の草花のかんさつ」より

 

6月7日 27°

きょう学校のかえりにありがたくさんいた。よるかみなりがなった。ゆうだちもふった。

   ✴︎

夜になって降りだした雨は太古から渡ってくる。子どものころ、家の中で聞く激しい雨の音はちょっとしたお祭りのようだった。夜の庭に閉じこめられてずいぶん時間がたつが、私が私としっかり合致せず、うわの空で過ごしたみたいに記憶は空白だ。みんな誰かの記憶であって、私には雨の音だけが残されている。

 

ぐちゃぐちゃな引用の仕方になってしまいました。

井坂洋子の詩が好き、女性性と関連付けられる事が多い(実際にそういう詩も多い)けれど、それ以上に、地に足ついた言葉たちから鮮やかなイメージを想起させられる作品が多い。文章も好き。詩集と単行本と合わせて10冊くらい持っている、現代詩手帖の古い特集号も昔、既に出回っていなかった『井坂洋子詩集』と一緒に買ったけれど未だに読んでいない、卒論にしようかと思っていたのだね。

 

引用したのはこの詩集の中でも最も分かりやすい作品の冒頭。この感覚、ちょっと分かる、ね。

何年も前、『七月のひと房』(七月堂)を通販で直接購入して読んだ時、奥付に著者の住所がまるで昔の本か同人誌のように載っていて、それが当時私の住んでいた住所とほぼ同じ、最後の丁目がひとつずれてるだけで、すなわち歩いて数分の距離に詩人は住んでいるのだった。

そうなるとファンレターを出したくなるのがファンというもの、住んでる所めっちゃ近くてびっくりしました! なんて事は書かん。でも、しれっと自分の住所も記載しているわけだから、ちょっといやらしいです。そして幸運にも、お返事をいただいたのでした。

 

だれかの記憶でいられる人は幸せだと思う。

 

 ことによると、物を書くということは、なによりも書き手が主要事を、まるでこの上なく美味ななにかのように、まるであつあつのおかゆかなにかのように、絶えずよけてまわる、後回しにし続ける、そういうことなのではないだろうか。

 人は書きながら、重要なこと、どうしても強調しておきたかったことをつねに先延ばしにし、さしあたってはひたすら別のこと、まったくにのつぎのことを話したり、書いたりするものなのである。(p.287)

しかし、いわば常軌を逸せずして、人は若いといえるだろうか。(p.320-321)

『ローベルト・ヴァルザー作品集5』より

 

 

現代思想やそれと相性の良い文学でしょっちゅう登場する「宙吊り」や「遅延」に関する類はここでも言及されている。

ローベルト・ヴァルザーは昔、金井美恵子のエッセイで言及されていたので読んだ『タンナー兄弟・姉妹』はとても好きなのだけど、エッセイのような、語り手が前面に出てくる小品はあまり面白くない。

フェリクス場面集のような、身も蓋もない作品はおもしろい。

 

常軌を逸するって、最強ってことかも。

Beach Houseが新譜を出していたので聴きながらこれを書いていました。

きょうは6月5日、23:30。

また一週間、何事もなく、順調であることを、なにかに願います。