入院記録1(1/11に書いていたまま)

スマートフォンが重い。

最後に2l×9本入りの水をAmazonで購入したのが2021年5月6日と注文履歴にあるから、8ヶ月前までは多少の負荷を感じつつも2kgを持てていたようだ。

その次の注文からは600ml×24本入りにしているから、7月14日までの間に大きく体調が悪化したのが分かるし、もっと前の2月15日にOS-1を段ボール1箱分頼んでいるらしく、約1年前から肺気胸は酷くなっていたのも確認できるのは良いけれど、こんな形で、毎日、血圧や脈拍、体温などを記載する自己管理表と同様の効果を感じる事になるとは思わなかった。

 

12月18日の午前中に救急入院し、今日が1月11日、3週間になる。年末年始を病院で迎えたのは4度目で、クリスマスや元旦の特別献立は年々寒くなってきているけれど、その時期は病院も休診しているので普段より静かで落ち着いた雰囲気があって悪くない。30日に売店の他に唯一営業している理髪店に行った時は、タリーズや食堂、入退院受付センターの消灯された暗がりが、ただでさえ明るいとは言えない色度のだだっ広い空間にのっぺりとした影を落としていて、薄青色に白と紺のストライプ柄の、第一ボタンにあたる部分がない為に自然と胸元が開いてしまうパジャマの隙間に冷たい風が吹きつけ、むき出しになった耳は顔剃りの際の蒸しタオルやドライヤーによる火照りとは一変し、冬の身が縮こまる空気をもろに受けてしばらく赤く染まったままだった。

 

先週の水曜日、両親を含め、医師たちと今後についての面談があった。現状より身体が良くなるには、つまり肺を良くするには肺移植しか方法がない。リスクも高いし、術後もかなりしんどいが、そうでなければ現状維持を最大目標とし、なるべく悪くならないように努める、それでどこまで持つか。

8年前に心臓移植の説明を受けた時以来の、再び訪れるとは思っていなかった選択に、現在も担当であるその当時の主治医や母親、コーディネーターは涙してくれていたけれど、円になるような座り位置のほとんど中点に『語りかける身体』(西村ユミ)が置いてあるのはよろしくないかも、帯とかついてなくてよかった〜とか思ったり、他人に対してなら感情が先走って泣いてしまうけれど自分事になると現実的に今後について思考しちゃうから泣く余裕がないんだよな、とかいいつつ誰かに優しい言葉をかけられたら、抱きしめられたらそれは溢れ出てしまうのは目に見えてるし、ほんとうはそうしてほしかった、といえるほど最早望んではいない。

 

肺移植の登録の条件のひとつに、2年後生存率が50%以下というのがある。

病室内のトイレまで数歩あるくと息は上がり、酸素をつけずに食事をとる事がきつい、ベッドをフラットに出来ない、胸の圧迫感・痛み、肺活量600cc(男性平均3500cc)、こまごまとしか喋れない、など現在の状況を踏まえると1年もたない気がするし、早ければ半年以下か、それも新型コロナウイルスや風邪、感染症に罹らなかったとしての話で、延命措置をとる気はない。いや、臓器移植こそが最大の延命治療に他ならないけれど。

 

時間はあまりないようなので、このブログにだらだら書き綴ろうと思う。なるべく書こうと思う。

何にも考えなくていい

「デトリタス見聞」

 

あのあかるい火も花も

みんないまは青の属性に入って、

一日黒く燃えていた

赦せないことが

叫ぶのをやめ、生命の活動をやめ、

静かに白く横を向いていくとき、

冷えて沈んでいく水平線に

わたしの座る椅子があるように思う。

 

(中略)

 

(黒庭。

思考はいつもここへ帰ってきて、

暗闇の中の雨を洗い出した。

一つずつに怒り、一つずつに後悔し、

這いずって、

そうした一つずつをわたしは赦そうと思う。

わたしはわたしの体のなかへ

受容していこうと思う。)

 

わたしには、見ることだけが

たしかに正義だった気がします。

 

「先刻、鯨の子が流れていったよ、

あの辺り、

海が青緑色になってプランクトンが塵のように集まって、

あんなに温かそうに渦を巻いているあたり、

大きな体のきれいな子が、

優しく、

花で飾られたお釈迦さまみたいなお顔をして、流されていったよ。

プランクトンたち嬉しくなって、

鯨の子のことをもうむちゃくちゃに

あいしているようだったよ。

鯨の子は、それは、

遠く、遠くへ、

プランクトンたちに見送られながら、流れていった。

波がせわしくぎらぎら光って、

ゆっくりと、もういなくなったよ。」

 

ブルーサンダー』暁方ミセイ より

 

この詩はもっと長くて、中略してしまってはいけないけれど、してしまいました。すみません。

好きな詩。

昨日引用した井坂洋子の詩の中にも雨が入っていたけれど、最近雨が多いから選んでしまったのかな。

 

「黒庭」って現実のなにかなのかと思い検索したら遊戯王が出てきました。もうひとつ「ぎゅう黒庭」というお店が出てきたのだけど、こちらは熊本県玉名市にあるようで出生地の近くでした。この詩集に登場する神奈川県の地名や鶴見川は横浜で育った身としては馴染みのあるもので、なんだか縁ですね。

 

たった今、井上尚弥vsノニト・ドネアをAmazonプライムで観た。あまりに圧巻で、なんだか競技をみたという感じがしない。一曲聴いた(観た)、あ、終わっちゃった、みたいな。

ザ・マッチがあと2週間後と思うと、随分月日は経ったんだと感慨深くなる。

今はandymoriのライブ音源をAppleで流しながらこれを打っています。

 

今日はリハビリで1ヶ月ちょいぶりに、歩いた。往復3mくらい。ふくらはぎが攣りそう。再来週にはトイレまで歩いて実際に使えるようになるという目標なのだけど、はたしてどうかしら…。

食後の痰の出やすさ、身体を横に向けるきつさ、一度出たら6.7時間は持続して相当量の痰が出続けてしまい、他には何も出来なくなってしまう事を考えると、やはり肺自体は着実に悪くなっている、弱っているだろう。

1ヶ月間健康な肺と替えてくれたら、1ヶ月後喜んで死ぬだろう。欲が出る? いや、もう何も出ない。

疲れたらちょっとさ、

『嵐の前』井坂洋子

「温度と庭の草花のかんさつ」より

 

6月7日 27°

きょう学校のかえりにありがたくさんいた。よるかみなりがなった。ゆうだちもふった。

   ✴︎

夜になって降りだした雨は太古から渡ってくる。子どものころ、家の中で聞く激しい雨の音はちょっとしたお祭りのようだった。夜の庭に閉じこめられてずいぶん時間がたつが、私が私としっかり合致せず、うわの空で過ごしたみたいに記憶は空白だ。みんな誰かの記憶であって、私には雨の音だけが残されている。

 

ぐちゃぐちゃな引用の仕方になってしまいました。

井坂洋子の詩が好き、女性性と関連付けられる事が多い(実際にそういう詩も多い)けれど、それ以上に、地に足ついた言葉たちから鮮やかなイメージを想起させられる作品が多い。文章も好き。詩集と単行本と合わせて10冊くらい持っている、現代詩手帖の古い特集号も昔、既に出回っていなかった『井坂洋子詩集』と一緒に買ったけれど未だに読んでいない、卒論にしようかと思っていたのだね。

 

引用したのはこの詩集の中でも最も分かりやすい作品の冒頭。この感覚、ちょっと分かる、ね。

何年も前、『七月のひと房』(七月堂)を通販で直接購入して読んだ時、奥付に著者の住所がまるで昔の本か同人誌のように載っていて、それが当時私の住んでいた住所とほぼ同じ、最後の丁目がひとつずれてるだけで、すなわち歩いて数分の距離に詩人は住んでいるのだった。

そうなるとファンレターを出したくなるのがファンというもの、住んでる所めっちゃ近くてびっくりしました! なんて事は書かん。でも、しれっと自分の住所も記載しているわけだから、ちょっといやらしいです。そして幸運にも、お返事をいただいたのでした。

 

だれかの記憶でいられる人は幸せだと思う。

 

 ことによると、物を書くということは、なによりも書き手が主要事を、まるでこの上なく美味ななにかのように、まるであつあつのおかゆかなにかのように、絶えずよけてまわる、後回しにし続ける、そういうことなのではないだろうか。

 人は書きながら、重要なこと、どうしても強調しておきたかったことをつねに先延ばしにし、さしあたってはひたすら別のこと、まったくにのつぎのことを話したり、書いたりするものなのである。(p.287)

しかし、いわば常軌を逸せずして、人は若いといえるだろうか。(p.320-321)

『ローベルト・ヴァルザー作品集5』より

 

 

現代思想やそれと相性の良い文学でしょっちゅう登場する「宙吊り」や「遅延」に関する類はここでも言及されている。

ローベルト・ヴァルザーは昔、金井美恵子のエッセイで言及されていたので読んだ『タンナー兄弟・姉妹』はとても好きなのだけど、エッセイのような、語り手が前面に出てくる小品はあまり面白くない。

フェリクス場面集のような、身も蓋もない作品はおもしろい。

 

常軌を逸するって、最強ってことかも。

Beach Houseが新譜を出していたので聴きながらこれを書いていました。

きょうは6月5日、23:30。

また一週間、何事もなく、順調であることを、なにかに願います。